今日は、人の持つ方向性について書いてみたいと思います。
哲学的なお話しかもしれませんので、好みがわかれる話題かと思います。
人間には、得意、不得意があります。
そして、得意な方向に進んでいきます。
その人の、進む方向性は、生まれ持って決まっています。
才能は、生まれつきだからです。
人は、その才能に引っ張られらように努力させられてしまうものです。
司馬遼太郎は、このことを見事に一言で表現していました。
[持ち生まれた突出物に、とんでもない旅回りをさせられてしまうのが、人の一生だと]
この表現1つ見ても、司馬遼太郎の才能に惚れ惚れします。
もう、この一言で全て済んでいるのですが、私なりの蛇足を少しだけ書きますね。
改めて、司馬遼太郎の言葉を見返すと、才能がない人はいないけど、突出が少なければ、人生も穏やかに過ぎる、とも読めました。
司馬遼太郎は、時代に名を残すような、人達のことを主に書いていた人ですから、その突出した才能とは、格別なもののことだったのかもしれません。
ただ、どんなに小さな才能にでも、人というのは必ず動かされてしまうのです。
そして、描かれた方向性は、どんどん伸びてしまうのです。
成功するかとは別に。
もしろ、多くの方は、ただ苦労するだけに終るかもしれません。
たとえば、サーフィンが好きな人は、サーフィンします。
すると、次はああしよう ‥こうしてみたいなどの欲求が、生まれます。
そのため、またサーフィンに行きたくなります。
肌は焼け、夜も照り返しで体は熱っぽくなりますが、それを冷ますためにも、海に行きたくなります。
そして、また焼けていきます。
そうして、また新たなアアシタイ、コウシテミタイが生まれてきます。
この欲求を立ちきるには、暫く海から離れるしかありません。
はじめは、辛いのですが、1~2ヶ月すると落ちついてきます。
このように、方向性というのは、加速してゆくのです。
そして、基本、止められないものです。
サーフィンの話は続きます
いくら、落ちついても、欲求は度々生き返ります。
たとえば、春になって気温が上がり、冬から開放されたら、サーフーァにはたまりません。
そのように、気分や季節などによって、欲求を刺激され続けてしまうのです。
欲求は、基本的には、天から与えられたものです。
体の中に眠っています。
何らかのきっかけで目覚めてしまいますが。
食欲などと似ています。
サーフィンの場合、本当に欲求が落ちつくのは、歳をとって、肉体的に衰弱した時です。
サーフィンだけでなく、才能と呼べる全てのものは、肉体の衰えとともに、枯れてゆくものです。
なので、体に合わせて、欲求を自然に消化してゆけるなら、それに勝る人生はないのでしょう。
ただ、才能は方向性を持ち、さらに加速してゆくものですので、ほとんどの人は、体が元気な内から苦労させられてしまうものです。
持ち生まれた才能に操られながら、持ち生まれ方向性へ進むことは、個人のためですが、最後には、多くの才能の成果は民族のためになるものです。
だから、今は、自分のため、家族のため、と無我夢中で必死で生きている人も、どこかで、民族や大きなものと繋がっているのです。
才能も人生も与えられたものです。その中で、生きているのですから、その帰結は、やはり、与えられた先に返るのです。
それは、考えなくてもそうなるので、個人は必死で生きればよいのです。
そう考えると、少し楽になります。
自分が頑張った先に、民族への何かがあるなら、何だか安心します。
では、本日もお疲れさまでした。
ご覧くださり、誠にありがとうございます。